生きてこその欠落

鈴木芳樹(id:yskszk)の話をようやく続ける。

下の日記の後、通夜には行けなかったのだが、翌日の告別式には行ってきた。さすがに平日の昼間、参列できる人は限られた人たちだけだった。マーラーの第9交響曲が流れる中、清々しく式は執り行われた。「清々しい」とはまた妙な表現かもしれないが、オレにはそんな風に感じられた。

彼がこの世で唯一絶対に参加できない行事にこの自分が参加している。まるでパラドクスの迷宮に迷い込んでいるような気分だった。別に一身同体でもなんでもないのだから、可能世界としてはなにもおかしいことではないのに、ヤツが死んでいるということがまったく実感できなかったので、そんな錯覚に陥ってしまったのである。その非現実感が、マーラー交響曲とシンクロして、どこか清冽な空気を醸し出していた。

いつだったか彼が、「葬式とは残酷な儀式なんだよ!」と、誰かの本で読んだのを話題にしていたことを思い出した。死は、目の前の不在と見かけ上違いがない。しかし「死」という事実を参列者が共有することによって、不在を絶対的なものに変えてしまう儀式こそが葬式だ、というのだ。

しかし、ヤツに教えてあげたかった。実際には、それは一面的な見方でしかないのだ。葬式は、否応なくオレの「生」を実感させてくれた。彼の死を以って、自分の生を確認できる場でもあったのだ。生きていてよかったとかよくないとかの問題じゃなくて、とにかくオレは生きている。その事実をストレートに突きつけられる場でもあったのだ。まぁそんなことを言おうものなら、安い実存主義者め、と返されるのだろうけど。ともあれ、我は生きている。おめおめと生きている。

その後、本当は納骨まで行きたかったのだが、親戚の方に混じってお邪魔する勇気が出なかった。「お前の骨を拾ってやるぜ」という冗談をきっと一度は飛ばしたことがあると思うのだが、それが果たせなかったのが残念だった。

***
あいつがいなくなって、そろそろ半年になる。こちらのはてなダイアリーは、下の日記のままにして、彼への墓碑銘にしてもいいかなと思っていた。というのはもちろんウソで、何かを書こうにも、うまく気持ちの整理が付かなかったのが本当のところである。

引越しして遠くに行ってしまったときとは、さすがにワケが違った。やつの存在感は、むしろこの半年で増したような気がする。いや存在感ではなくて、欠落感か。『カラマーゾフの兄弟』を読了しても、『デトロイト・メタル・シティ』の映画を見ても、ガンズの新譜が17年ぶりに発売されそうになっても、シャルトリューズの好きなワロン人と友達になっても、秋になってブラームスの季節になっても、そういう取りとめもない話をする相手が、いっぺんにいなくなってしまったのだ。

http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20080519トラックバックも、もうさすがに一段落したようだ。みんなが彼のことを忘れたわけはなかろうけど、トラックバックでさえも、生きていればこそのものなのだな。たまにはこうして、「トラバ供養」するよ。*1  *2

「死んだあの子を永遠に覚えておきましょう!」とアリョーシャがふたたび、思いのたけをこめて言った。
「永遠に覚えておきましょう!」少年たちがふたたび彼の言葉に声を合わせた。
カラマーゾフさん!」とコーリャが叫んだ。「ぼくたちみんな、死からよみがえって命をえて、おたがいにまた、みんなやイリューシャにも会えるって、宗教は教えていますが、それって本当なんでしょうか?」
「きっとぼくらはよみがえりますよ。きっとたがいに会って、昔のことを愉快に、楽しく語り合うことでしょうね」
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟亀山郁夫訳より

*1:何度か試したのだが、トラックバックはうまくいかないようだ。やはり死人のブログには制限をかけているのだろうか? 仕方なく、文頭にキーワードにもなっている本名を入れてみた。

*2:うわあ、なんだか他の人のidトラックバックはうまくいっているみたいだ。「お前のトラバなんか受け付けねえよ」とばかり、あの世から操作してるんじゃないの?とヨシキ的な邪推を繰り広げてみたりして。