Opera でマウスオーバー辞書を使う
WebブラウザのOperaを使い始めてしばらく経った。体感的にたしかに「軽い」し、「あのページが見られない!」ということもあんまりない*1ので、とても満足している。
ただし、ツールバーが対応していないのが泣き所。Googleツールバーとはてなツールバーが使えないのは不便だな、と思っているのは自分だけではないらしいのだが、なきゃないで現状に適応してしまう性格なので、それほど致命的でもなかった。
それでも、英文を読むときにGoogleのマウスオーバー辞書がないのはさすがに不便だな、と思い始めて、いろいろ調べてみた。
UserJSなどで実現しているものがあるようなのだが、どういうわけだが、このJSがインストールしてもさっぱり動いてくれない。ちゃんと「ユーザーJavaScriptフォルダ」でフォルダ指定しているのに、ウンともスンとも言ってくれない。再起動も必要ない、って書いてあるのに。どうなってるのやら。
それでさらにいろいろ調べてみると、翻訳ソフトを使う方法があることがわかったが、当該ページのソフトはすでに販売終了していた。そこで、さらに「マウスオーバー辞書 opera ソフト」で検索してみると、次の「キングソフト辞書」というのが引っ掛かった。しかも、フリーの辞書。
http://www.ideaxidea.com/archives/2009/03/kingsoft_dictionary.html
インストールしてみたが、たしかにこれは便利。とりあえず、これでイケそうだ。
以上、覚書。
*1:見られなければアッサリ諦めているため、だけかもしれない。
The Mass is ended; go in peace.
一年前の日記で、クリスマスの朝に『ドイツ・レクィエム』を知ってから、1年が経った。その後、ほぼ日課のようにこの曲を聴いて、2009年ではダントツに聴いた曲となった。少なく数えても、3日に一度の割合では聴いていたな。
ナップスターには10数種の音源があるのだが、一番シックリ来たのは、カール・シューリヒト&シュトゥットガルト放送響。1959年のモノラル録音なのだが、音がフラットながらも、まるで天上から降ってくるような響きが良かった。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1781802
まぁところで。クリスマスというと、必ず聴く曲がある。バーンスタイン作曲の『ミサ曲』だ。
レナード・バーンスタインといえば、言わずと知れた大指揮者なのだが、彼が作曲家でもあったことを思い出せる人は少ないだろう。しかも、その数少ない人もほとんどは、「ウェスト・サイド物語」のミュージカル作曲家という印象だろう。しかしバーンスタインは、交響曲も3曲を残した、真っ当な意味でのアメリカ人現代作曲家の1人であった。
現代音楽家としては耳に馴染みやすい音階を使い、かといってポピュラリティすぎず、シリアス・ミュージックとしても鑑賞に堪えるものを生み出し、とにかくそのヴァランスが優れていた。3曲の交響曲をはじめとして、彼の作品はひととおり聴いたが、どれも自分好みのツボにちょうど入る、いい作曲家だった。彼の逝去の直前、指揮者を引退して作曲活動に専念すると宣言して、自分は小躍りしたくらい嬉しかったのだが、それから1週間くらいで亡くなってしまった。訃報は、指揮者の死というより作曲家の死として受け止めたものだった。
その中でも、圧倒的な傑作がこの『ミサ曲』だ。演奏時間は100分を越える大作。もともとは、1971年にワシントンのジョン・F・ケネディセンターのオープニングのための演奏芸術作品として作曲された。「歌い手、演奏家、ダンサーのための劇場用作品」というただし書きのとおり、オーケストラだけの器楽曲ではなく、歌あり、ダンスありの、オペラとミュージカルの中間のような作品だ。オーケストラ、ジャズ、ブルース、ロックなどのさまざまな音楽が全編を埋め尽くしている。「アメリカ」の音楽の歴史が、ギュギュっと1作の中に詰め込まれている、壮大な作品なのだ。1970年ごろの作曲ということで、フラワームーブメントの影響をここに見ることもできるだろう。
全体的には、伝統的な「ミサ曲」の形式に完全に則っていて、宗教音楽としても聴くことができる。歌はラテン語の賛美歌だけではなく、英語の台詞も交えたオリジナルのストーリーになっている。そして、このストーリーの出来栄えが、また泣けるほど素晴らしい。
主人公はギターを抱えた司祭。司祭は神の愛を歌にして説いていくのだが、民衆は神の存在を信じようとしない。そんな司祭と民衆のやり取りで曲は進行していくのだが、この音楽的なやり取りが圧巻で、先にも述べたように、オーケストラ、ジャズ、ブルース、ロックなどのありとあらゆるジャンルの音楽が次々に現れる。「退屈」というものをまったく感じさせない。ポピュラリティとシリアスのヴァランスが、絶妙に図られている。
司祭と民衆の軋轢はどんどん増していき、ついには暴動のような嵐を巻き起こしてしまう。その嵐に飲み込まれた司祭は、ついに神の存在に疑問を抱いて「壊れて」しまう。すべてが崩壊し、沈黙が支配するステージに、静かに天使の歌声が降り注いでくる。天使の少年たちは聴衆の方までもやってきて、優しく触れる。それを「次にまわしてください」と、安らぎを全員で共有する。そして「アーメン」の祈りとともに曲は静かに終わる。
ストーリーはある意味では「ベタ」なものだけれど、やはりバーンスタインの信仰とか愛とかが見事な形で昇華された作品だと思う。最後の「アーメン」の瞬間は、「あぁ、キリスト教徒になるのも悪くないなぁ…」とふと思ってしまうくらいの、満ち足りた瞬間なのだ。そんなわけで、クリスマスのときくらいは、この曲を聴いてシンミリとしてしまう。
とにかく大掛かりな曲なので、日本で生演奏を観る機会などないだろうと思っていたのだが、15年前ほどだったか、この曲のライヴ演奏があったので、この曲を教えてくれたid:yskszkと聴きに行った。舞台で観る『ミサ曲』は、それはもちろん圧倒的に感動的だった。
この2年くらいは、クリスマスにゆっくりと音楽を聴く時間もなかったのでまったく気づかなかったのだが、比較的ノンビリと迎えられた今年は、ナップスターにも『ミサ』があることに、気づけた。
- アーティスト: ナガノ(ケント),ハデリー(ジェリー),パシフィック・モーツァルト・アンサンブル,ベルリン放送合唱団,バーンスタイン,ベルリン・ドイツ交響楽団
- 出版社/メーカー: キング・インターナショナル
- 発売日: 2005/03/24
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前者は初演直後の録音のようだが、最近でケント・ナガノが指揮したものがあったとは知らなかった。
クロスジャンル的な作品の好きな人には、オススメの1曲。バーンスタインの偉大な才能にぜひ触れてください。
さようならのだめカンタービレ
- 作者: 二ノ宮知子
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やっと読んだ最終巻。振り返ってみると、このブログを付け始めた頃にこのマンガを知って、何度か話題にした。そのとき、團伊玖磨「パイプのけむり」にちなんでタイトルをつけていたが、これが最後になるだろうから、最終巻のタイトルをもじった。
http://d.hatena.ne.jp/originalovebeer/20050116のエントリで、伏線の回収の見事さに感嘆していたが、最後になって一気に伏線を回収しまくったなぁ。落としどころも綺麗だし、充分満足できるエンディングだった。
「我が家ののだめさん」は、無難すぎるエンディングに不満そうだったが、それはなんか違う気がするんだよね。何を求めているのやら。破綻したらしたで文句言うだろうに。
クラシック音楽の師匠であり同好の士でもあったid:yskszkは、結局最終回まで読めなかったんだよな。もし読んでいたら、彼も自分と同じくらいの感想だったと思うのだが。
ちなみに、ドラマ(映画)はまったく見る気ない派。イメージがぜんぜん違いすぎる。のだめ、あそこまで白痴的ではないだろう!? 変態と白痴は違う。たぶんあの女優さんの当たり役と言われているのだろうけど、オオハズレもいいところ。
継続して読んでいる漫画は少ないのだが、ちゃんと完結してよかった。あと読んでいるのは、未だに完結する気配がないんだよなぁ…。
読み始めて10年
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読み始めて24年(半泣)
強殖装甲ガイバー (26) (角川コミックス・エース 37-26)
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七夕といえば
スピッツかガバドンかと思っていた自分は、どちらにしてもちょっと古い人間のようだ…。
満月も見られてよかった。七夕満月は、検索すると「19年ぶり」と「19年に一度」の両説が入り乱れている。どっちが正しいのかと思いきや、「前回は1990年、次回は2028年」ということで、両方とも合っているようだ。
こんな日にオレが聴く音楽は、「月の裏で会いましょう」とか「ムーンストーン」とか「月に静かの海」とかと思うでしょう? いやいや、ローリング・ストーンズの「ムーンライトマイル」なんだな。
大事なことを忘れていた!
そうだ、7月7日といえば、オレが田島貴男よりも敬愛するグスタフ・マーラーの誕生日だった。来年生誕150年、再来年没後100年*1で、またマーラーブームが来ると言われている。ブームはともかくとして、魅力的なイヴェントが目白押しなんだよな。少しくらいは生で聴けるチャンスがあるのだろうか…。
*1:マイケル・ジャクソン、グレン・グールドと同様、享年50。
yskszkの一周忌
今日は、鈴木芳樹(id:yskszk)の一周忌。お母様からご連絡をいただいて伺ったのですが、先日、既に故人だったお父様と一緒に法要されたそうです。お母様は、新たに犬を飼われて、お元気そうにされていました。
…ということを、一年前に冥福を祈られた方に伝えたいのだけれど、今回もトラックバックうまく行かないのだろうか? もし、そうなっているなら、どなたかどうかこのエントリをリンクorブクマしてください。
そういえば、二つ前のエントリで、「葬式とは残酷な儀式なんだよ!」というyskszkの言葉について書いたが、それについてyskszkに絡めて言及されている方がいて、驚いた。
極端なことをいえば葬式によって擬似的に我々はその人を社会的に殺すのである。そのために葬式がある。悼む、というのはその社会的に殺す場面に立会い、個として個の社会的殺人者になることを共有することだと思う。
彼の葬儀に参加しときながら、実は今は「死」の実感はあまりない。欠落感をも通り越して、もはや自分の心の中での大きな存在感となってきている。陳腐だが、彼は正に自分の心の中で息づいているのだ。
近況
追悼文シリーズはおしまい、とか言っていたのに、案の定、この日までこっち側の更新はしなかったな。
去年末から、ほぼ日課のように『ドイツ・レクイエム』を聞いている。それは彼への追悼なのかもしれないが、この曲を聴くと心が穏やかになるのだ。これがメメント・モリってやつ?(たぶん違う)
ナップスターにはかなりの種類の指揮があるので、それで飽きることがないのが幸い。カール・シューリヒト版と、クレンペラー版が今のところのお気に入り。ただしまだ、歌詞を精読していない。もうちょっと気が向いたら、しっかりと聴きこんでみたい。
酒的には、キリン「一番搾り」のオールモルト化の話だとか、サッポロ「焙煎」(http://www.sapporobeer.jp/baisen/)の復刻の話なんか書きたかったけど、機会を逃した。
音楽的には、ナップスターで配信されたクラムボンとスーパー・バター・ドッグを一気に聴いた。SBDの『333号室』は大傑作。この10年間、本当に新しい音楽を聴いてなかったんだな。失われた10年。少しずつ取り返していこう。
こないだクラムボン『てん、』と、チャットモンチー『告白』を衝動買いした。あとは、グリーン・デイのニューアルバムを聴いてます。
2008年の鎮魂曲
クリスマスの朝、スカパー!から美しい合唱が流れてきて手が止まった。オーケストラをバックにした、自分好みの官能的なメロディ。はじめはマーラーかと思った。それが実は、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」と知って驚いた。この曲はかなり昔に聞いていたが、あまり印象にも残らずに忘れていた曲だった。まさか、こんなに甘美な旋律だったとは。
そういえば、鈴木芳樹(id:yskszk)がhttp://d.hatena.ne.jp/yskszk/20060424#p5で、「オレがもっとも愛するクラシックの作曲家はブラームス」と書いていたのに驚いたことがあった。彼が好きなのは、てっきりフランス系の作曲家とばかり思っていたのもあるし、ドイツ・ロマン派の作曲家にそこまでの愛着があるのも意外だったからだ。ましてこの曲にヤツは「ブラームス!ドイツ!レクィエム! 重厚の3点セットだ!」と揶揄していた思い出もあったから、なおさらだった。
あぁこれは彼からのクリスマスプレゼントなのかな?と思って、ナップスターで落とした。
- アーティスト: ラトル(サイモン),ロシュマン(ドロテア),クヴァストホフ(トーマス),ベルリン放送合唱団,ブラームス,ハルゼイ(サイモン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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彼が生きていれば(という仮定文を書くのは今でも寂しいのだが)、今日は38歳の誕生日。生と死の交叉する象徴的なこの一日を、今年最後の更新日としたい。
オレにとって、"今年の漢字"は「死」だ。あまりハッピーな一年でもなかったし、いくつかの死が頭の上を掠めていった。彼の死は、彼との交流の20年間の思い出の死でもあった。自分の中の一部が、ごっそり死んでしまった。友の死が、かくも絶望的なものであることを、否応なく知らされてしまった。そして、生きていればいずれ確実に訪れる、家族の死が怖くて仕方がなくなってしまった。
しかし、恐れてばかりもいられない。絶望は空しい。しかし絶望のない人生も空しいのだ。今年は「生」を痛烈に実感する一年でもあった。
このブログの本来のテーマ、田島貴男も、生と死の共存するインドで大きなものを体感してきたようだ。来年には出るであろう新作にも期待したい。
「今回、我々は
ゼロを探すという名目で旅をはじめたけど、
そもそもゼロってのはさ、
エネルギーがない状態のことじゃないんだよ。
無の状態から、粒子がいつも
ポロポロと生まれてくるような
エネルギッシュなものなんだよ。
すぐに何かが出てくる可能性を
めっちゃくちゃはらんだ
動的なゼロなんだよ」
この「ほぼ日」の記事は、彼自身の言葉で綴られた「Tajima's Voice」とも併せなければならない。
身体の不自由な物乞いの人々がいっぱいいる。祈りの言葉を口にしながら、汚れた色をしているガンジスに頭まで浸かる男と女、子供達は潜ったり泳いだりおどけたりして遊んでいる。神聖と俗の区別はない。大賑わいの商店街の中、黄色い美しい花に包まれた、火葬場で焼かれる死体の乗った担架を、4、5人の人々が大きな声で歌を歌いながら担いで通る。言うことを聞かない子供を叱りながら沐浴をしている家族のそばを、布袋に入った幼児の死体が浮かんで通り過ぎる。
ヨシキ追悼文シリーズは、これでお仕舞い。ハッピーニューイヤー。
生きてこその欠落
下の日記の後、通夜には行けなかったのだが、翌日の告別式には行ってきた。さすがに平日の昼間、参列できる人は限られた人たちだけだった。マーラーの第9交響曲が流れる中、清々しく式は執り行われた。「清々しい」とはまた妙な表現かもしれないが、オレにはそんな風に感じられた。
彼がこの世で唯一絶対に参加できない行事にこの自分が参加している。まるでパラドクスの迷宮に迷い込んでいるような気分だった。別に一身同体でもなんでもないのだから、可能世界としてはなにもおかしいことではないのに、ヤツが死んでいるということがまったく実感できなかったので、そんな錯覚に陥ってしまったのである。その非現実感が、マーラーの交響曲とシンクロして、どこか清冽な空気を醸し出していた。
いつだったか彼が、「葬式とは残酷な儀式なんだよ!」と、誰かの本で読んだのを話題にしていたことを思い出した。死は、目の前の不在と見かけ上違いがない。しかし「死」という事実を参列者が共有することによって、不在を絶対的なものに変えてしまう儀式こそが葬式だ、というのだ。
しかし、ヤツに教えてあげたかった。実際には、それは一面的な見方でしかないのだ。葬式は、否応なくオレの「生」を実感させてくれた。彼の死を以って、自分の生を確認できる場でもあったのだ。生きていてよかったとかよくないとかの問題じゃなくて、とにかくオレは生きている。その事実をストレートに突きつけられる場でもあったのだ。まぁそんなことを言おうものなら、安い実存主義者め、と返されるのだろうけど。ともあれ、我は生きている。おめおめと生きている。
その後、本当は納骨まで行きたかったのだが、親戚の方に混じってお邪魔する勇気が出なかった。「お前の骨を拾ってやるぜ」という冗談をきっと一度は飛ばしたことがあると思うのだが、それが果たせなかったのが残念だった。
***
あいつがいなくなって、そろそろ半年になる。こちらのはてなダイアリーは、下の日記のままにして、彼への墓碑銘にしてもいいかなと思っていた。というのはもちろんウソで、何かを書こうにも、うまく気持ちの整理が付かなかったのが本当のところである。
引越しして遠くに行ってしまったときとは、さすがにワケが違った。やつの存在感は、むしろこの半年で増したような気がする。いや存在感ではなくて、欠落感か。『カラマーゾフの兄弟』を読了しても、『デトロイト・メタル・シティ』の映画を見ても、ガンズの新譜が17年ぶりに発売されそうになっても、シャルトリューズの好きなワロン人と友達になっても、秋になってブラームスの季節になっても、そういう取りとめもない話をする相手が、いっぺんにいなくなってしまったのだ。
http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20080519のトラックバックも、もうさすがに一段落したようだ。みんなが彼のことを忘れたわけはなかろうけど、トラックバックでさえも、生きていればこそのものなのだな。たまにはこうして、「トラバ供養」するよ。*1 *2
「死んだあの子を永遠に覚えておきましょう!」とアリョーシャがふたたび、思いのたけをこめて言った。
「永遠に覚えておきましょう!」少年たちがふたたび彼の言葉に声を合わせた。
「カラマーゾフさん!」とコーリャが叫んだ。「ぼくたちみんな、死からよみがえって命をえて、おたがいにまた、みんなやイリューシャにも会えるって、宗教は教えていますが、それって本当なんでしょうか?」
「きっとぼくらはよみがえりますよ。きっとたがいに会って、昔のことを愉快に、楽しく語り合うことでしょうね」
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫訳より