『私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)』

去年最後に買ったのは、問題の永井均氏の新著。講談社現代新書の装丁が変わった第1回目の配本の一冊。

そういえば、その装丁が変わったこと、あれは実にショックだった。同じような内容の新書があれば講談社のを手に取るくらい、以前の装丁がものすごく好きだったのだ。新装丁の第一印象は、いや第五印象くらいまで、これじゃ他の新書との違いがないよ!と思っていた。だけれども、当人の弁解もとい狙いを知って、「それならばお手並み拝見」というくらいの気分にはなっている。すべての装丁が新しくなったら再評価しよう。
http://shop.kodansha.jp/bc/books/hon/0411/nakajima.html

さて『私・今・そして神』である。タイトルからしてキワモノ臭がプンプンとする。内容は、上の3冊の「実践編」のようなものといえばいいか。誰かの思想の解説ではなく、いろんな人の思想のおいしいところを取り上げて自分流の「哲学」を作り出す、哲学の渋谷系のような本だ。

ちなみにこの「神」は、十字架に磔られているあのお父さんのことではなくて、ヴィトゲンシュタインがいうところの「語りえぬもの」のことである。彼もニーチェハイデガーも、考えていることはといえば、結局その「神」についてのことのようだ。しかしその「神」は、われわれとも非常に身近な存在(あ、そうじゃないのか)なのだ。「神」について考えることが祈りなのであり、ミュージシャンにとっての演奏とはその「祈り」と本質的に同じことなのではないだろうか。というのが、今辛うじて言葉にできる直感。

この本を読んだ後に得るものは、とくにない。だって、本当にないんだから仕方ない。まさに「投げ捨てられるべき梯子」なのだな。あ、いや、そういえばあった。「得た」のではなくて「失った」ものが。この本の第3部は、どうやら最初の『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)』への批判になっているらしい。P205に出てくる「鋤を入れることができない岩盤」という表現は、鬼界氏も使っていたくらいだしね。で、この私的言語の不可能性についての解説は、『ウィトゲンシュタイン…』でのハイライトの一つでもある。そこはとても面白く読んだところだったのだが、そこを当の本からリンクしていって辿り着いた先でアッサリと論駁されてしまった。宙ぶらりん状態。それもまた面白いか。

得るものはなくとも、読むことそれ自体を楽しめる本である。今思いついたので書いてしまえば(たぶん誰か言っているクリシェだと思うけど)、哲学というより「哲楽」な一冊。